
発売日: 1972年6月2日
ジャンル: プログレッシブ・ロック、サウンドトラック、フォーク・ロック
概要
『Obscured by Clouds』は、ピンク・フロイドが1972年に発表したスタジオ・アルバムであり、
同時に映画『La Vallée(邦題:雲の上の絵)』のサウンドトラックとして制作された作品である。
本作は、『Meddle』(1971)の翌年に発表され、『The Dark Side of the Moon』(1973)へと続く重要な橋渡しの役割を担っている。
つまり、サウンドトラックの形式をとりながら、次の時代への音響設計が芽生えた過渡期のアルバムなのだ。
映画の監督はバーベット・シュローダーで、ピンク・フロイドは前作『More』(1969)に続いて彼と再タッグを組んだ。
ジャングル奥地を舞台に「文明と自然」「現実と理想」をテーマに描いた映像に合わせ、
彼らは短期間で楽曲を即興的に作り上げていく。
録音はフランスのスタジオ・エクトで行われ、わずか2週間というスピードで完成された。
本作の魅力は、“映画音楽”でありながらアルバムとしての完成度が非常に高い点にある。
シンセサイザーを軸にした新しい音作り、コンパクトでメロディアスな楽曲構成、
そして後年のピンク・フロイドを象徴する“人間の感情”と“音響空間”の融合がすでに始まっている。
『Obscured by Clouds』は、
「構築の完成形」ではなく「直感と感性の結晶」――その生々しさが、かえって時代を超える魅力を放っている。
全曲レビュー
1曲目:Obscured by Clouds
タイトル曲にして、重厚なシンセサイザーのパルス音が印象的なオープニング。
“雲に覆われた”というタイトルの通り、もやの中で形を変え続けるような音の揺らぎが聴き手を包む。
デヴィッド・ギルモアのギターは鋭く、同時に深く沈み込むようなサウンドスケープを描く。
後の『The Dark Side of the Moon』で確立されるエレクトロニックな感覚の原型がここにある。
2曲目:When You’re In
前曲からシームレスに繋がるインストゥルメンタル。
ワウを効かせたギターとパーカッシブなドラムが躍動感を生み出し、
ジャングルを進むような生命のリズムを感じさせる。
音響的にはシンプルだが、演奏のダイナミズムが心地よい。
3曲目:Burning Bridges
リック・ライトとギルモアのツイン・ヴォーカルが美しいバラード。
穏やかなメロトロンの響きに乗せて、離別と再会を繰り返す心情が描かれる。
“Burning bridges behind me”という歌詞は、過去を断ち切りながらも光を求める寓話のようだ。
4曲目:The Gold It’s in the…
明るくストレートなロックナンバー。
“求めるものはそこにある”というシンプルなメッセージが、映画の冒険的テーマを軽快に彩る。
ギルモアのギター・ソロが短くも爽快に響く。
5曲目:Wot’s… Uh the Deal
静かなギター・アルペジオと優しいメロディが印象的な一曲。
ウォーターズが描く“選択と後悔”というテーマが繊細に表現されており、
後の『Wish You Were Here』に通じる内省的なリリシズムを感じさせる。
ピンク・フロイドの“叙情”がもっとも素朴に表れた美曲である。
6曲目:Mudmen
インストゥルメンタル。
ライトのオルガンとギルモアのギターが絡み合い、
霧の中で揺らめくようなメランコリックな世界を描く。
サウンドは即興的でありながら非常に構築的で、
“音が風景を描く”というピンク・フロイドの哲学が明確に示されている。
7曲目:Childhood’s End
本作のハイライトのひとつ。
重厚なリフと哲学的な歌詞が特徴で、“子供時代の終わり=無垢から現実への転換”をテーマにしている。
この曲の展開構造やコード進行は、『Time』(『The Dark Side of the Moon』収録)を先取りしており、
まさに次の時代への“鍵曲”といえる。
8曲目:Free Four
ウォーターズらしい皮肉とユーモアに満ちたロックンロール。
軽快なリズムの裏で、“死と運命”をテーマにした歌詞が淡々と語られる。
「The memories of a man in his old age are the deeds of a man in his prime」という一節が、
人間の時間感覚と無常観を鋭く突いている。
9曲目:Stay
ライトによる美しいメロディが印象的なラヴ・ソング。
一夜限りの関係を描きながらも、切なさと温もりが共存する。
ライトの歌声が優しく響き、アルバムの中で最も人間味のある瞬間を生み出している。
10曲目:Absolutely Curtains
アルバムを締めくくるインストゥルメンタル。
神秘的なオルガンの持続音が続き、終盤にはパプア・ニューギニアの部族の合唱が挿入される。
文明と自然、音楽と祈りの境界が消え去り、
アルバム全体を貫く“人間と自然の対話”のテーマを象徴する終幕である。
総評
『Obscured by Clouds』は、ピンク・フロイドのディスコグラフィにおいて“控えめな存在”と見られることが多いが、
その実、次の時代への音響的準備運動として極めて重要な作品である。
『Meddle』で築かれたサウンドスケープの構築力を維持しながらも、
ここでは楽曲がより短く、メロディが明瞭になり、リスナーに寄り添う形へと変化している。
それはのちの『The Dark Side of the Moon』で完成する“人間的普遍性”の萌芽にほかならない。
本作で顕著なのは、ウォーターズの詞世界が個人の内面へ深く潜り始めていること。
社会や幻想よりも“生の手触り”“過去と現在の葛藤”に焦点が当てられている。
「Free Four」「Wot’s… Uh the Deal」「Childhood’s End」に見られる内省は、
フロイドの思想的軸がここで確立したことを示している。
また、ギルモアとライトのメロディメイカーとしての感性が瑞々しく、
実験よりも“感情の輪郭”を丁寧に描く方向へ向かっている。
映画用に作られた楽曲であるが、サウンドトラックの枠を超えて
“1枚の完結したアルバム”として成立している点こそが、この作品の特異な魅力だ。
全体を通じて、ピンク・フロイドの“過渡期の穏やかな顔”を聴くことができる。
それは大作主義の前夜にだけ存在した、一瞬の清涼さである。
『Obscured by Clouds』は、“静かな前兆”としての美しさを放ち続けているのだ。
おすすめアルバム
- Meddle / Pink Floyd
前作にして本作の音響的前提。長尺構成と叙情が融合する。 - The Dark Side of the Moon / Pink Floyd
本作の要素が完全体となる世界的傑作。 - More / Pink Floyd
同監督作品のサウンドトラック。フロイドの映像的感性の原点。 - Wish You Were Here / Pink Floyd
内省と友情のテーマが深化する1975年の代表作。 - Magma / Mekanïk Destruktïẁ Kommandöh
同年リリースの異文化的スピリチュアル・ロック。比較的視点として興味深い。
制作の裏側
録音はわずか2週間で行われたが、即興と直感に支えられたセッションには
バンドの結束と成熟が感じられる。
プロデューサーはピンク・フロイド自身。
シンセサイザー「VCS3」を導入し、音の厚みと空間表現が飛躍的に向上した。
この機材の使用が『The Dark Side of the Moon』の音響基盤へと発展していく。
バンドは映画のシーンを観ながら演奏を行い、
リック・ライトが“音で風景を描く”というアプローチを確立した。
その結果、音楽は映像に寄り添うのではなく、映像を“拡張する”存在となった。
歌詞の深読みと文化的背景
1972年の世界は、反戦運動の余波とヒッピー文化の終焉期にあった。
『Obscured by Clouds』は、理想と現実、自然と文明の狭間に揺れる人間像を静かに描いている。
“雲に覆われた”というタイトルは、
未来を見通せない時代の象徴であり、同時に希望への曖昧な光でもある。
ウォーターズの詩はその霧の中で、個人の選択や悔恨を描き、
ギルモアのメロディはその上に淡い光を差し込む。
二人のコントラストが、曖昧で優しい“人間の現実”を浮かび上がらせている。
ビジュアルとアートワーク
ストーム・ソーガソン(Hipgnosis)によるジャケットは、
人物が写りながらもピントが合わず、まるで雲や霧のようにぼやけている。
これは“現実の不確かさ”と“記憶の曖昧さ”を象徴しており、
アルバム・タイトル「Obscured by Clouds=雲に覆われて見えないもの」の視覚的翻訳でもある。
音と映像、現実と幻想――そのすべてが霞の中で溶け合う。
それがこのアルバムの最も詩的な魅力なのだ。



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